ボイス

【ボイス:2023年10月18日】田中聡選手

世界に通じる武器を育てた
タイミングの良い指導に感謝
 強い身体と疲れを知らないタフさ、攻守に渡って中盤の底からチームを支えるプレースタイルが特徴。特にボールを奪って攻撃につなげていくシーンはどの試合でも数多く見られる、田中選手の武器の一つだ。

「守備は、湘南で教わりました」

 サッカーを始めたのは幼稚園の頃。兄の影響があったようだが、そこは「記憶にない」。あるのは、物心ついた頃にはプロサッカー選手を目指していたこと。

「長野でちょっと実力のある人はみんな(AC長野)パルセイロのセレクションを受けに行っていたので、そこに。セレクションを受けて入りました」

 中学時代は長野のアカデミーに通い、高校年代は、そこからつてを辿ってベルマーレのユースに加入する。

「パルセイロにいたコーチがベルマーレにいたので、電話して相談に乗ってもらいました。長野では、サッカーで壁にぶち当たったり苦労したことはなくて。でも県外のチームとたまに試合をすると、全然歯が立たなかったので、県外の強豪校か強豪クラブに行きたいと思いました」

 ベルマーレユースが関東の強豪高校と練習試合を行った際に練習に参加し、ベルマーレユースの選手として試合に出場した。

「選手のレベルが高くてすごくやりやすかった。自分の調子も良くて、すんなり溶け込めて、『サッカー、楽しい!』ってなりました」

 このときのポジションは、3-4-3のシャドー。この頃からフォワードもやればボランチ、センターバックもやるというオールラウンダーではあったものの、自分は攻撃的な選手というのが自覚するところだった。

「攻撃が好きで、点を取るのが好きだったのでトップ下とかフォワードが楽しかったですね。守備は今ほど意識はしてなくて、カットインしてシュートとか、自分は点を取って、10番で、みたいなキャラでした」

 ベルマーレはアカデミーからサッカーのコンセプトはトップチームと同じ。どのポジションの選手でも強度の高い守備力が要求される。攻撃重視だった田中選手は、ここで守備を徹底的に仕込まれることになった。

「今、栃木(SC)の監督のトキさん(時崎悠監督)が、僕が高1のときに教えてくれました。今じゃめちゃめちゃ感謝してますけど、当時はものすごく怖かったです。練習中、みんなビビってましたね。でも、そういう雰囲気でやれてたんで、みんなも上手くなったと思いますし、自分も上に行けたなっていう感覚があります」

 高校1年で守備を磨き、高校2年になった4月に2種登録された。が、このシーズンは、練習の大半をユースで過ごし、トップチームに合流することはあまりなかった。翌シーズン、高校3年生になって卒業後の昇格が発表されると、練習からトップチームに合流し、試合出場の機会も巡ってくることになった。

「でも、試合には出られましたけど、全然上手くいかなかった。なんて言うんだろう、試合に出始めてからはよくなったけど、その試合に出るまでの期間、その練習の期間は本当に酷かった。ボールは全部取られるし、自分の武器であるボール奪取もできない。攻撃も変なパスをして取られたり、判断が遅くてみんなに怒られたりしてました。目一杯ただ頑張るだけって感じで、余裕がなかったです」

 今になればプロのスピードについていけてなかったことが理解できるが、その頃は自分のプレーがことごとく通用しないことに焦るばかりの日々を過ごした。

「高2で2種登録されて、『プロになれるかな』みたいな期待もあったけど、2種登録されてもプロに上がれない人も何人もいたので、そこはまだ全然満足とか安心とかはなかったです。高3で昇格できるってなったときはめちゃくちゃうれしかったけど、そのときは全然試合に出られてなかったので、『プロになれた』という達成感はあっても、不安もありました」

 練習でうまくやれた記憶はなくても、チャンスは与えられた。そして、意外なことにむしろ実践の方がうまくやれることを体感する。

「(浮嶋)敏さん(2019年10月~2021年8月トップチーム監督)が使ってくれました。高2のときのユースの監督が敏さんだったので、そのまま一緒にトップチームに上がった感じ。他の選手からしたら、『なんであいつが出るんだ』という感じだったかもしれません。でも、試合に出たら意外と悪くないなっていう感じで、なんとかこなせた。だから、敏さんには本当に感謝してます」

 実戦でスピードを感じ、フィジカルを鍛え、ただただがむしゃらに食らいついてシーズンを過ごした。

「何も考えずに、プロでもなかったので失うものもなかった。ただ頑張ったらうまくいって。で、プロ1年目に、よく言う『2年目の壁』みたいなものにぶつかった。考えすぎちゃって、メンタルもおかしくなったり。ミスが続いて『もうやばい、試合に出たくない』みたいなときもあって。プレーもまったくダメだったのに敏さんは使ってくれて、よくないですけど、それはそれで『もうやめてくれ』と思ったこともあった。それでも中断期間があって、そこでゆっくり休んだらメンタルも回復してプレーも上がっていった感じでした」

 今でこそボールを持ったら奪われない技術と、1対1で負けないフィジカルとスピード、90分を通して運動量を落とさないタフさで存在感を示しているが、浮嶋前監督が指揮を執っていた、特に2種登録の頃は、フル出場する方が少なかった。

「毎試合、足が攣っていて毎回代えてくれていたんですよ。でも智さんになって、『代えないよ』みたいに言われて(笑)。『なんか、代えてみたいなアピールしてくるけど、俺は代えないからね』みたいな感じで言われて。やっぱりアンカーよりインサイドハーフとかの方が運動量があるので、攻撃系の選手を代えたいという話もありました。でも、それで足が攣らなくなったし、走力もついたのでありがたいです。いい指導をしてもらいました」

 成長過程の節目節目で将来を見据えた指導を受けたことが今の田中選手を作り上げた。その指導に感謝する素直さこそが田中選手の強みといえそうだ。 

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