ボイス

【ボイス:2016年9月22日】奈良輪雄太選手

サッカー人生の浮き沈みを経験し
プロを目指して過ごした7年間

 横浜FMのアカデミーに6年間在籍した奈良輪選手。高校を卒業する時に、トップチームに上がる道がなかったわけではない。それでも進路の希望を出す際には大学進学を選んだ。
 
「ギリギリの感覚があったんで。高校卒業してプロになれても通用しないっていうのが一番怖い。短命で終わる選手もたくさんいるし、そうはなりたくないと思っていたので、大学に行ってしっかり鍛え直してからプロに入った方がいいなと考えて進学を希望しました」
 
 高校を卒業後、大学を経由してプロを目指す選手にとって4年間は決して短い時間ではない。また、その長い時間の中で過ごすサッカー生活は、思い描いた通りに行くことばかりでもない。奈良輪選手にとって大学の4年間がどうだったかというと
 
「自分の経験の中で、浮き沈みという意味では筑波の4年間は一番しんどい4年間でした」
 
 1年生から公式戦への出場機会を得、1年生、2年生と主力選手として過ごした。3年生の時に、現在川崎フロンターレで指揮をとる風間八宏監督が就任した。
 
「そこでサッカーがガラッと変わりました。でもそこでも試合には絡んでいたし、大学3年最後の大会で全国で準優勝もできた。
 最後の大学4年でチームとしても個人的にも結果を出してプロに行こうと思っていた時に大きな怪我をしちゃって。夏までサッカーは出来ないと言われたんですけど、それは現実的にプロに行くのは不可能と言われたようなもの。その時は一番しんどかったですね」
 
 3年間が順調だっただけに怪我をした時のショックは大きかった。
 
「大学の4年間、プロになれなきゃ意味がないというほどの危機感を抱いて、自分にハッパをかけてサッカーをやってきたので。
 自分は、人との巡り合わせだとか運だとか、持っている方だと思っていたので、最後の最後、『なんでこのタイミングで怪我をするんだろう?』という感覚がありました」
 
 それでも落ち込んでいてもどうにもならない、わずかでも夏に開催される、大学日本一を決める総理大臣杯に出場できる可能性があるならと、リハビリに励んだ。その甲斐あって、3ヶ月で復帰。夏の大会に間に合った。ところが
 
「間に合ったと言っても普通に練習ができるようになって1週間くらい。大会の初戦に出たんですけど、まったく身体が動かなくて。
 結局、自分は後ろから相手選手を倒して退場しちゃって。それで与えたPKの1点でチームは負けた。その試合は、自分にとってのワーストゲームです。
 それがきっかけで試合勘を取り戻せと監督に言われてBチームに行って。そこからも一生懸命やったんですけど、そのまま卒業するまでずっとBチームでサッカーやってました」
 
 プロになりたい気持ちはもちろんだが、大学4年間の集大成という思いも込めて迎えた大会だっただけに心残りは大きい。
 
「プロになりたい気持ちは当然だけど、4年生の自分が引っ張って結果を残したいという気持ちで取り組んでいた試合で、途中から出てみんなの足を引っ張って、PKを与えて負けてしまったというのは、チームに対してもそうだし、自分に対しても……。あれは本当にしんどかったですね」
 
 Bチームにいる選手にJリーグに加盟するチームから声がかかることはなかった。そのままサッカーを辞める選択肢も考えたが
 
「もちろん怪我をしたのも実力の一つではあるんだけど。でも怪我が理由でプロになれなかったら、それはそれでもったいないなって思った。そこでもう一度ポジティブに考え直して、プロではないけど一つ下のカテゴリーのJFLの、上位のチームのセレクションを受けて、受かったらもう1回チャレンジしようと決めて、セレクションを受けました」
 
 その結果、SAGAWA SHIGA FCに2010シーズンから3シーズン在籍することになった。
 SAGAWA SHIGAは、社員として雇用される形をとるアマチュアではあったが、サッカーに専念できる環境で、クラブの雰囲気も良く、JFLで優勝経験のある強豪だった。
 
「湘南に似ていて、みんな真面目にサッカーに取り組むチームでした。ハードワークするチームで、サッカーをやっていて楽しかった。この3年間が一番成長できたと思ってます」
 
 加入した年に新人王を獲得。翌年は優勝し、3年目のシーズンにはベストイレブンに入った。3シーズン、ほぼ全試合に出場し続け、優勝に貢献した実感もある。
 
「ユースのときも大学のときも準優勝は何回かあったんだけど、優勝というのはなかったんで、優勝したときは本当にうれしかったですね」
 
 奈良輪選手は、これまでのサッカー人生を振り返ると、人との出会いに導かれたものだと語る。それは例えば、サイドを得意とする選手でありながら、左右は問わないところ。どちらの足でも遜色ないクロスを上げられるのは、彼特有の武器だ。それは、中学生の頃に受けた指導が生きているから。
 
「左足が使えるようになったのは、中学生の頃から。指導者の方に『両方蹴れた方が良いよ』と言われて、その一言がずごく頭の中に残っていた。毎日練習するときに右足と左足を交互に使っていたんですよ、それを今もずっと続けてて。多分それが、左右蹴れることにつながっているんじゃないかなと思います」
 
 また、プロへの夢をつないだSAGAWA SHIGAへの加入時にもラッキーな出会いのめぐりあわせがあった。
 
「監督が大学時代のあの退場した試合をたまたま見に来ていたんです。あの後のセレクションだったんで、あんな試合を見た後の自分を良く評価してくれるなんて、なかなかないと思う。
 でもその前をたどると、僕がいた当時なんですけど筑波の学生は、福島のJヴィレッジで行われるS級ライセンスの指導者養成講習に補助学生として手伝いに行くんです。たまたま僕が行ったときに監督も来ていたそうで。僕は全く覚えてないんですけど、監督は覚えていて、ずっと動向を気にしてくれていたらしくて。だからセレクションを受けに行った時もすぐに採ろうと決めてくれたという話を後から聞きました。
 運や人との出会いを味方にしてきた自分のサッカー人生なので、怪我で落ち込んだときもあったけど、諦めずに前向きにやっていればこういうこともあるんだなと改めて思わされたSAGAWAでの始まりで。そこから3年間はしっかりやって、結果も出せたので、本当に充実した3年間でした」
 
 SAGAWA SHIGAは、2012シーズンの終了とともにJFLを退会し、トップチームの活動を停止した。在籍チームがなくなるという悲運に遭遇したが、そこでもまた、過去の出会いに導かれることとなった。

>人との出会いに導かれて 夢だったトップチームへ加入