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2020.04.29

湘南ベルマーレ20周年記念コラム「志緑天に通ず」第1回

EPISODE-Ⅰ HIRATSUKA
1999 Spring Passion

1998年冬。横浜フリューゲルスの合併による消滅というニュースを聞いたとき、我が愛するチームは大丈夫だろうかと誰もが思ったに違いない。そして、わずか数カ月後、想像すらしたくなかった現実を突きつけられた。
悲しい現実。しかし、フリューゲルスと大きく違うのは、ベルマーレには「1年間」という時間が幸運にも残されていたことだった。そして、それぞれの情熱が大きな波を作り出してった。

1999存続危機

「ただいまより、Jリーグホームタウンサミット平塚を開会いたします」
舞台の脇に控え、佐藤隆良のちょっぴり上ずった開会宣言を聞きながら、私は「今日で終わるな」と徹夜続きで腫れ上がった目をこすった。
主催した平塚商工会議所青年部は、平塚の中小企業の後継者の集まりである。佐藤も駅近くの酒屋のせがれで、今回のサミットの実行委員長だ。平塚商工会議所青年部の設立10年の節目の年を迎えるに当たり、佐藤を中心に記念事業を催すこととなった。
記念事業と聞くと何かお祝いムードが漂うのだが、このサミットに関しては少々雰囲気が違っていた。

当初の計画はベルマーレと地域密着を謳った楽しいイベントを開催するはずであった。たとえば日本代表選手である呂比須ワグナーとのPK合戦だったり、韓国代表選手である洪明甫とリフティング競争などである。しかし1998年の秋口に発覚したベルマーレの経営危機をうけて、急転直下、楽しいイベントから真剣な議論の場へと変わっていった。
結局、最終的に決まった内容は、全国26のホームタウンから講演会や青年会議所などクラブの支援活動を行っている団体を呼び集め、クラブとの付き合い方など情報交換の場を作るということだった。それがベルマーレを支援していく我々平塚商工会議所青年部にとって、近い将来、貴重な情報のストックにもなるという考えだった。
「Jリーグホームタウンサミット平塚」と名付けられたこのイベントに際し、委員長である佐藤が取り仕切り、私はサブで佐藤を補佐するという役割を担うことなった。

佐藤は持ち前の行動力で全国に電話をかけまくった。とにかくすべてのホームタウンから出席者を確保しないとこの企画は成り立たない。彼が嫌がられるほど電話をかけまくる一方で、実際の内容づくりが私の仕事となり、関係各方面の折衝に歩いた。会議所に協賛会員メンバーとして籍を置く飯田哲也が精力的に関係各方面を紹介してくれたことで、Jリーグ事務局とのやり取りなどは思いのほかスムーズに進んだ。我々の熱意が伝わったのか、Jリーグでは企画部の松田薫二氏と中西大介氏が熱心にアドバイスを送り続けてくれた。
そして年が明けた1999年1月21日、22日の両日、クラブチームからの出席者も含め100名を超えるJリーグの支援者たちが「Jリーグホームタウンサミット平塚」に集まり、熱い議論と親交を深めることができた。こうしてサミットは盛況のうちに終了した。と同時に、私のベルマーレへのかかわりは、できる限り平塚競技場に足を運び、残留争いという厳しい戦いに挑むチームを応援することだけになるはずだった。

2月の初め、私の元に佐藤から連絡が入った。
「舟平の水嶋さんが、ベルマーレの件で集まりがあるから眞壁も参加してほしいと言ってるんだけど」
水嶋一耀は、平塚で古くからある料理屋「舟平」の若旦那で、市民応援団の副団長でもある。ベルマーレの関係者や選手とも親しい熱心なサポーターだ。
指定された日に舟平へ足を運ぶと、2階の十畳あまりの和室はすでにそうそうたる支援者の顔ぶれで埋まっていた。市民応援団団長の福澤正人、スーパーウェーブスの水谷祐三と彼の友人たち、元ベルマーレの選手で今は県会議員の森正明、湘南ケーブルネットワークの水川潔とアナウンサーの村上実樹、FM湘南ナパサの三島英二など、これまでずっとベルマーレを支えてきた人たちが、真剣な顔で肩を寄せ合っていた。
私が着くや否や、開催の音頭を取った水嶋が立ち上がり、この会の趣旨の説明を始めた。

フジタの経営危機により、ベルマーレは主力選手のほとんどを移籍させてしまった。そんなリストラ騒ぎからすでに数カ月の時間が経ったが、一向にサポーターや支援者の元に情報が届いてこない。このままでは、1998年に親会社・佐藤工業の撤退により消滅してしまった横浜フリューゲルスの二の舞になりかねない。したがって、この会に集まった各人が情報を持ち寄って、ベルマーレを常に正確にバックアップできるようにすること。同時に持ち寄った情報の中から、サポーターや市民に正確な情報を発信し、ベルマーレのJ1残留の戦い、そしてやってくるであろう存続運動を盛り上げていこう――水嶋の発言は、こういうことだった。
水嶋の話を聞いていた各人からは口々に、熱い意見が交わされた。私も自然とその“熱”と一体になっていた。
「たいした役には立てないかもしれない。しかし、サミット開催に携わったことで得た全国のホームタウンの情報や、Jリーグとのパイプが何らかの形で生きるかもしれない」
興奮の渦の中、私はそう考えていた。そして、この集まりは「ベルマーレ情報部会」と名付けられ、ベルマーレ存続に向けて重要な役割を果たしていくことになった。

一方、平塚市や平塚市サッカー協会も、このベルマーレの存続危機を傍観していたわけではなかった。市サッカー協会は、ベルマーレの主催ゲームを手助けしながら、将来の経営的支援も視野に入れた「ベルマーレ5000人の会」の立ち上げをリードし、すでに存続に向けた効果的な活動を重ねていた。平塚市も、存続運動の受け皿となることを目的とした、新たな後援会を、吉野稜威雄市長を会長として立ち上げた。理事長を平塚市体育協会の田中國義が務め、ベルマーレのための支援金集めなど精力的に動いた。

「5000人の会」「平塚市民応援団」「ベルマーレ後援会」そして勝手連的に発生した「情報部会」などが、多くのサポーターやボランティアを巻き込みながら、この危機を乗り越えようと献身的な活動を展開していった。

1999年集合写真

そんな中、3月6日、アウェーの横浜F・マリノス戦から、J1残留に向けた苦闘の1999シーズンが始まった。
しかし、シーズンが進むにつれてスコアボードには残酷な結果が残されていき、そしてついに、一縷の望みを残していた親会社フジタの正式撤退が、6月15日平塚市に伝えられた。
しかしサポーターや市民に大きな動揺は見られなかった。
その理由のひとつは残念ながら想像通りだったということ、そしてもうひとつは、吉野市長の英断にあった。いたずらにサポーターや市民に心配させないよう、またフリューゲルスの再現とならないよう、ベルマーレを存続させることへの強い意思表示をしたのである。

ベルマーレは過去にも市長の英断でピンチを脱したことがある。それは1993年のジュビロ磐田、柏レイソルとのJリーグ昇格争いの時だった。JFLで首位をひた走っていたフジタは、競技場の拡張工事の遅れをJリーグ昇格決定委員会から指摘された。そのことが発端で、フジタはたとえ優勝しても昇格が見送られるのではないかという噂が流れ、それを聞いた市民は動揺した。石川京一市長(当時)はすぐさま川渕三郎チェアマン(当時)を訪ね、必ず開幕までにJリーグの基準をクリアする整備を間に合わせると確約し、実際にその約束を果たした。その市長の英断と実行力に市民は喝采を送った、ということがあった。

そして、今回の吉野市長の動きも早かった。すぐに市民の意見を集約する機関として、「存続検討委員会」の設置を発表するなど、サポーターや市民に対して、ベルマーレを存続させる意思があることを行動で示した。

そんな折、私の元へ甲高い声の男性から電話が入った。
「太郎です。今日市長に会って、眞壁さんを存続検討委員会のメンバーに推薦しました。青年会議所からは白石さんに入ってもらうことになるから、眞壁さんは商工会議所青年部から入会ということでお願いします」
突然の電話に、私は驚きを隠せなかった。電話の人物は地元選出の衆議院議員である河野太郎だった。彼とは1歳違いで、古くからの知り合いというわけではなかったが何かと波長が合い、友人として付き合いをしていた。
ベルマーレを平塚の財産と考えていた彼も、何とかしたいと早い時期から陰で奔走していた。ことあるごとに、二人でベルマーレに関する情報のキャッチボールを重ねていた。彼は政治生命を懸けて、地元の国会議員としてベルマーレの存続に強い使命感を抱いていたのだ。
「国会議員である僕が存続検討委員会に参加することは難しい。だからあなたが委員として出席して、今まであちこちの会合で出たサポーターの意見を、委員会に反映させてほしいんだ」
あまりの急な話に、明確な返事ができないでいると、「第1回の存続検討委員会は、7月13日の4時に市役所ですから」という言葉と同時に、電話は切られた。
彼は一旦腹を決めると、その方向に一直線に突っ走るタイプの人間であることを、これまでの付き合いから知っていた。情熱的に語り始めると、周囲の弱音は彼の耳に届かなくなることもよくわかっていた。
「ベルマーレを存続させることに力になれるなら、ここは腹をくくろう」
私は河野の勧めを了解することにした。

存続検討委員会には14人の市民が集められた。出席者すべてがベルマーレを何とかしたいという強い気持ちを持っており、委員は活発な議論を交わし、委員長に就任した室賀實が見事な手綱さばきで委員会をまとめ上げていった。
こうして存続検討委員会は、短期間のうちに、ベルマーレが存続すべき理由と存続させるための手法の提案が列記された「室賀メモ」なる存続案の原案を完成させた。そして、8月10日にはホームタウンの広域化を柱とした存続検討委員会報告書が吉野市長に手渡され、平塚市が中心となってベルマーレ存続に向けての正式なスタートが切られた。

しかし、その後フジタとのベルマーレの継承交渉は水面下で進められたため、その交渉の経過が見えない市民やサポーターから不満の声が聞かれるようになった。
舟兵の情報部会でも同様の意見が出ていた。そこで存続作業を後押しするためにも、情報部会としての意見書を勝手に作り、平塚市にぶつけようということになった。情報部会のメンバーが約半年間の支援活動の経験を元にした意見を出し合い、会が考える理想的なクラブ像としてまとめ上げた。それを森正明が整理し「ベルマーレ新会社設立に向けての提言」として意見書を市に提出した。

1999年の降格

その頃チームは、セカンドステージの初戦で名古屋グランパス相手に小松原学、西本竜洋らの活躍で劇的な勝利をおさめたものの、その後は勝ち星に恵まれることはなかった。ベルマーレのJ2降格は決定的となり、情報部会でも降格後の話が現実を帯びて話され始めていた。
チームがもがき苦しんでいる中、、水面下で進められていたフジタと新会社の受け渡しの方法と手順がついに決定した。そして9月28日に、ベルマーレが地元企業とサポーターに支えられた市民球団として存続されるということが発表された。しかしそれは、社長も社名も何も決まらないままの見切り発車でもあった。

その時、もうすでに来季に向けて、Jリーグのカレンダー調整が始まろうとしていた。存続は発表されても、チームを立て直すための現実的な時間は多くは残っていなかった。

※EPISODE-Ⅱはこちら

※このコラムは2004年に発行された湘南ベルマーレクラブ10年史に「インサイドストーリー:フジタ撤退から湘南ベルマーレ蘇生までの真相(眞壁潔著)」として掲載されたものです