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【ボイス:12月29日】坂本紘司選手の声・前編

ベルマーレ平塚から湘南ベルマーレへ。
クラブの在り方とともに名称が変わって13シーズン、
その月日を共に歩んできた坂本紘司選手。
その坂本選手が2012年シーズンをもって引退することとなった。
クラブが手探りで模索する方向性の影響を直接受けるチームで歩んだ道は、
決して平坦ではなかったけれど、その逆境すら糧にしてサッカーに取り組み、
いつしか“ミスターベルマーレ”と呼ばれるまでに成長した。
クラブの誇りでもある坂本選手がベルマーレに残した足跡を、ほんの一端ではあるが、2回に分けて振り返ってみよう。

昇格が決まったピッチに立って
やり切った満足感を実感

 11月11日に開催された第42節、アウェイで迎えたFC町田ゼルビア戦。出番は、86分に回ってきた。曺監督の狙いは、「ツートップにして相手のボランチのところを抑えたかった。それと、カウンターでもう1点取れれば」。どちらのチームも他チームの結果次第とはいえ、大きなものを賭けて戦っていたJ2リーグ最終節。アウェイチームに3対0とリードを許したホームチームが、一矢を報いようと必死の攻勢に出ていた時間帯だった。

「曺さんは、情報をシャットアウトしていたから最後まではっきりとは知らなかったけど、トラックでアップをしている時にスタッフのソワソワ感が伝わってきた。それで、『あるんじゃないか?』と。昇格できそうな雰囲気は、僕が一番知ってると思うし、何かを感じ取って僕自身もソワソワしてました。それでもう最後は、心の中で『呼んでくれ、呼んでくれ』って願っていました」

 攻守に走れる選手を使いたいという曺監督の意図を体現できる選手として、控えていたメンバーの中から選ばれたのは坂本選手。こうして自身2度目となる昇格の瞬間をピッチで迎えた。ところが、この2日後、坂本選手の現役引退が発表された。

「町田で昇格が決まれば、自分にとってはベルマーレの選手としての最後のゲームになるということは、わかっていたこと。ただ、その時も何も決めてはいませんでした」

 サッカー選手を続けるのか、ベルマーレを選手生活最後のチームとするのか、自分に問いながら迎えた最終節。坂本選手は、この日、試合前から昇格の予感を感じていたという。

「自分にとって理想的な終わり方っていうのを想像していました。それは、湘南最後のゲームで昇格できて、自分もピッチに立っている。そうなれば良いなとずっと思っていたら、本当に自分がイメージした通りの光景になった。そこでふと、満足感というか、何年も気を張っていたものが、『ああ、終わった』と力が抜けるような感じがした。ベルマーレでのプレーが終わったという感覚と、同時に『この光景が最後ってすごく幸せだな』という感覚になった。
 そう思うと涙が出てきて、サポーターのところへ行ったりしている間に、なんとなく『終わりってことなのかな』っていう、自分のモチベーション的にですね、そういう感じがしました」

 答えは、その瞬間に訪れた。

「試合前にアップをしている時も、きれいな芝の上でボールを蹴りながら、もうそれだけで『ああ、サッカーはやっぱりいいな』『楽しいな』って、ずっと思っていた。ここで昇格が決まれば、ベルマーレのサポーターの前でこうやってボールを蹴るのも最後だなっていうことを思いながら、でも、やっぱりプレーするっていうことに関しては、本当に普通にボールを蹴ってるだけで楽しいし、まだまだやりたいと思っていた。
 だから、そう感じた今、ここで決めなければ、この先また1ヶ月悩んでも自分では決められない、迷ってしまうと思った。それでその時の感情のまま、後悔しないよう、強化部長に『もう終わりにします、ありがとうございました』と伝えました」

 昇格が決まった時、選手の中でただひとり胴上げをされた。すべての選手たちが1年間、その存在に支えられていたことを実感していたからだろう。その坂本選手を支えていたのが、サッカーへの思いとクラブへの愛情だ。

「僕は、選手を続けるのにモチベーションが一番大事だと思っていて、僕にとってのモチベーションは、ベルマーレでプレーするというのが大きかった。だから、この試合で感じた、『やり切ったな』っていう感覚は区切りをつける後押しになったと思います。
 もちろん、チームを移ってプレーを続ける選手もいて、どちらが正しいっていうことはない。ゴンさん(中山雅史選手・コンサドーレ札幌)のことは、単純にすごいって思うし。ただ僕は、ベルマーレに傾けてきた、なんて言うのかな、情熱というか、モチベーションを、ほかのチームに移籍できたとしても、同じだけのものが持てるのかな? と自分に問いかけた時に、『どうだろう?』っていう疑問が残っていた。
 それに、例えば何年選手をやったとしても『プレーは、もういいや』と思うことは、永遠にないと思う。だから、どちらかというと『どこかで区切りをつけなきゃいけない』というふうに思っていたから」

 選手とクラブが作る、幸せな関係性のひとつと言えるだろう。

「僕は、どこでも選べてこのクラブに来たわけではなくて、拾ってもらったっていうのがある。給料が良いわけでもないし(笑)。ただ、サッカー選手として稼いだお金ではなく、どれだけ充実してサッカー選手たる意義を見いだせたかっていうのは、長くこのクラブでやっていたから得られたものだと思う。
 僕は、代表にも入ってないし、J1で活躍した選手でもないけど、これだけ応援してもらえるのは、Jリーグの中でも稀だと思う。そう思うと、やっぱりこのクラブあっての自分だっていうのは、最後まで強くありました」

 逆もまた真なり。今シーズンついたキャッチフレーズは、その存在をそのまま端的に表現したもの。バンディエラあってのベルマーレでもある。

常にサポーターとともに!
デビュー戦の初ゴールから変わらない姿勢

 13年を振り返った中で、真っ先に浮かぶのはやはり2009年に昇格を勝ち点差1で争ったヴァンフォーレ甲府戦で決めたゴール。劇的なシーンは、昇格を最後まで争った今シーズンも、繰り返しメディアでその映像が流された。ゴール裏にいたコアなサポーターたちの記憶にすら、目の前のゴールネットが揺れたあの瞬間とともに、ゴールを決めてそのままサポーターのもとに駆け寄り、喜びを爆発させた姿をメインスタンド側から捉えられたカメラ映像が深く刻まれているに違いない。
 その映像に重なるように思い出されるシーンがある。それは、2001年シーズンの開幕戦にさかのぼる。まだ、ネーミングライツなどない平塚競技場で、J2リーグに加盟したばかりの横浜FCを迎えて行われた試合は、プロ生活5シーズン目を迎えた坂本選手にとってのデビュー戦でもあった。坂本選手は、この試合でプロ初ゴールを決めた。その時もまた、ゴールを決めた勢いのまま、コアなサポーターが集う元へと走り寄った。

「いろんな選手を見てきて、『やっぱりゴールを決めたら、サポーターのところに走るでしょ』みたいな(笑)。そんなイメージが自分の中であったから、今の7ゲートですね、コーナーフラッグの方からバーっと走っていきました」

 前年の2000年シーズンに移籍加入した坂本選手ではあったが、その年は怪我の治療とリハビリに明け暮れ、平塚競技場のピッチには、1度も立つことなく終わった。そのため、サポーターの信頼を得るのはこれからという、そのデビュー戦だった。

「あのゴールも2009年の甲府戦みたいな感じで、ぽんと自分の前にボールが転がってきた。目の前には誰もいなくてゴールも半分くらい開いている感じ。その時は右足だったんですけど、押し込むような形で。『そこにこぼれてきますか!』みたいな、自分の中ではすごくラッキーな、プレゼントされたようなゴールでした」

 ゴールを決めたのは、前半45分。ネットを揺らしたその勢いのまま、サポーターの元ヘ走りよって、ともに喜びを分かち合った。

「高校の時もそうだったけど、節目節目でラッキーが転がってくるっていうね、うちの親にも『なんか持ってる』ってよく言われます(笑)。デビュー戦で点を決めて勝つっていうのは、みんながみんな、できることではないので、ちょっと報われたような気はしました。でも、何度となくそういうことに助けられてきたなというのはあります」

 親会社が撤退した1999年に続き、2000年シーズンもまた、ベルマーレに関わる人にとっては厳しいシーズンだった。なぜなら、市民クラブへの道を模索しながらとはいえ、Jリーグでの実績もある歴史あるクラブ、J1への復帰は1年でかなうだろうと誰もが思って臨んだシーズンに11クラブ中8位という成績しか残せなかったのだ。その翌年のスタートだっただけに、この勝利と、ゴールの喜びをともに分かち合うために、真っすぐサポーターの元に駆け寄る選手に、うっすらとではあったが光明が見えた気がした。

「2000年はビッグネームがいっぱい入ってきたけどうまくいかなくて。それで2001年から若い選手たちで3年計画というわけではないと思うけど、チームを作っていこうという最初の年だった。今年みたいな感じですね。僕はそれまでゲームに出たことがなかったのに、孝司さん(田中孝司元監督)が、プレシーズンから結構、使ってくれて。本当に我慢強く使ってもらったなっていう年でした」

 当時を振り返れば、坂本選手自身もまた、背水の陣を敷いての移籍加入だった。

「プロに入ってほとんどゲームに出てなかったので、Jリーグの中で自分がどのレベルなのかももうわからなくなっていた。しかも、J2で出場機会が得られるんじゃないかという期待を持って移籍してきたんですけど、怪我が治らず、1年間出られなくて。その時は、1年の間サッカー自体ができなかったので、『普通に動けるのかな?』っていう不安もあった。
 その時は、この先、この年までやってるなんて、まさかまさか。誰も想像してなかったし、誰より自分が一番想像してなかったですね」

 「今年でだめなら、もう選手ではいられない」と覚悟して臨んだ2001年シーズン。ところが、田中元監督は、出場機会に加え、新しいタスクも与え、坂本選手の新境地を拓いていく。

「サイドハーフにコンバートされました。今のチームでいうなら高山(薫)とか、ああいうワイドのポジション。でも、左利きだから左に置かれた、くらいの、そんな感じだったと思います。
 僕は、ペナルティエリアの中からほとんど動かないような、そこでボールを受けて一人かわしてシュートとか、センタリングに合わせてシュートとか、まさに点取り屋っていうプレースタイルでプロになった。だから、小さい頃から含めて中盤の選手として何か練習してきたわけでもないし、センタリングを上げたり、サイドをドリブルしたり、そんなプレーはしたことがなかったけど、実際にやってみたら、『ああ、俺、意外とこんなこともできるんだ、あんなこともできるんだ』って、ただただ楽しかった。新しい発見の連続でした」

 田中元監督が率いたチームは、ゴールキーパーに伊藤裕二氏(現・名古屋グランパスGKコーチ)、ディフェンスラインにチャカの愛称で親しまれた元コロンビア代表のパラシオス氏、フォワードに栗原圭介氏(現・ヴィッセル神戸スクールコーチ)など、要所をベテランで固めた以外は、無名の若手選手ばかりだった。それでも少しずつチームとしての形を整え、勝ち方を覚え、サポーターからの信頼を積み重ねた。その中で坂本選手は、ほとんどの試合に出場する、中心選手へと成長していった。

※後編へつづく

取材・文 小西尚美
協力 森朝美、藤井聡行